本とAIとぼく
43歳のウェブデザイナーが2026年に考えていること
ぼくは今、本を書いている。
本。
ひとくちに本といっても色々ある。
小説や物語、ビジネス書、専門書。図鑑や雑誌、絵本もある。
出版形式もさまざまで、商業出版、自費出版、電子書籍、そしてzineや同人誌のようなインディペンデントなもの。色々ある。
ぼくは本が好きだ。いくつかの本の出版にも関わった。自分の名前が出たものもあるし、中を少し手伝っただけのものもある。
そのうちの数冊が、売れた。
自分では想像もできなかったところまで届いた。これは大きな喜びであると同時に発見でもあった。知識は体系化されるとより遠くまで届く。
しかし、負の側面もあった。自己が肥大化する。著者、先生などと呼ばれて、柄にもなく気持ちよくなったりする。収入が増える。まわりに人が増える。仕事が増える。
べつに問題はない。いいことじゃないか。
確かにそうだ。
それでも。時代には流れがある。
ぼくは専門書を書いた。ウェブの技術書だ。少し前まで「ちょっと先をいっている仕事」だった。「先見の明があったね」などと言われることもあった。たぶん、調子に乗っていた。
そしてある日、気がつく。私が立っているのは磐石な地盤ではなく、小さな中洲だったと。いつの間にか荷物が増え、いろいろなものを抱えている。体が重い。ここから出られない。そしてその中洲の砂が、ほとんど残されていない。
ぼくは、名古屋の小さな米屋に、次男として生まれた。
子どもの頃、コメは専売制だった。つまり、米屋しかコメを売れない。パチンコの景品にさえコメが並ぶ現代では信じられないことだが、そんな時代があった。我が家の商売はそのおかげで潤っていた。
そんな時に施行された、コメの自由化。その政策が、当時の祖父や父にとってどれほど大きいものだったのか、幼かったぼくにはわからない。大変だった、ということは聞かされている。でも、自分には関係のないことだった。強いて言えば、将来を見失って家業を継ぎたいと父に申し出たとき、「儲からないからやめた方がいい」と言われたことぐらいだろうか。そしてぼくは自分で道を探し、今ここにいる。
それから30年。ぼくの身に同じような波が襲ってきている。
今回は政策ではない。
AIだ。
苦労して身につけた技術。「手に職」をつけたはずだった。本を出して売れた。大きな案件をいくつも抱えた。コンテストで賞をもらった。やっと安全圏にたどり着いたはずだった。
でも、安全圏などなかった。
ぼくが1ヶ月かけて作るウェブサイトを、試しにAIを使って作ってみた。ただの興味だった。構想を思いついたのが22時。それから4時間後。深夜2時にはデザインと実装がほとんど終わっていた。1ヶ月と4時間。もうそんなところまできていた。
AIを使ってウェブサイトを作ることに、正直に言えば抵抗がある。聖域を守りたい。あなただってきっとそうだろう。それでもその聖域に咲いていた花が、とっくに枯れていたと気づいたとき、どうすればいいのだろう。
それなら、AIと一緒に何ができるのかを確かめてみよう。温めていたアイデア。時間がなくてできなかった企画。技術が足りなかったこと。ひとつずつ試してみた。
驚いた。自分の能力が拡張されている感覚があった。
ただし、AIが何でも解決してくれるわけではない。むしろ、自分の中に何があるかが問われる。経験、判断力、美意識。それがなければ、AIに何を頼めばいいかすらわからない。
AIは、優秀な同僚のようなものだと思う。使い倒す相手ではなく、一緒に考える相手だ。
そして今、本を書いている。



